神社に伝わるこぼればなし

神域として信仰の源は
大阪の上町台地の麓に位置する此の辺りには、かつて小高い森が存在していました。
黄昏時になるとその森の頂に玉の様な石から幾度となく光線が輝いていたとされ、その不思識の現象を人々は眺めて、神様の在わしますのを信じたと言い伝えられています。
その伝承から、やがて小さな祠を建てられ、神様を祭祀されたのが神社の由来とされています。


田島神社の神域について
かつては本殿の北側に奥山と呼ばれる広大な山がありました。
本殿北西の方にひろがっていた神域には樹齢数百年を数える古木が林立し、その中には樹齢約1000年といわれる松の大木が聳(そび)えていたそうです。
近隣では「田島の大松」と呼ばれ、村人が帰郷する際の目印であったと伝わっています。


お神楽について
お神楽の起源は、神話の天の岩戸開きに遡ります。
神楽の舞で天照大神が岩戸を開かれ世の中が一斉に明るくなったと記紀神話で伝えています。田島神社には、伝統ある浪速神楽が伝承されています。
全国に数ある流派の一つとして田島神社の特有の貴重な文化です。
お正月や節分、夏・秋のお祭りの際には、拝殿にてお神楽を承っております。ぜひご参拝の折にご奉納いただき、優雅な神楽舞とともに神威を授かって下さい。


天神様(菅原公)との縁について
古老の言い伝えによると、学問の神様「菅原道真公」が太宰府への左遷の砌(みぎり)、都から浪速へ下って来られました。河内国・藤井寺に住む伯母様に今生の別れと一目お会いしたいとの一心で、大川から平野川を船便で河内へ急がれました。その道中の田島の鎮守で休息されたとの曰くが伝承され、天神社となる由来となったと言われています。


末社(素盞烏尊神社)について
かつて神社の大鳥居前の道路南側に祇園さんと呼ぶ「須佐之男之尊」を祀る神域が有りました。約百五十坪程ですが、氏子は毎月朔日(ついたち)に赤飯を炊いて、無病息災を家内安全を祈願されていたそうです。現在は神社境内に末社としてお祀りされています。


眼の病に特に霊験あり
眼鏡の町の神様と田島神社が崇められ、村人、氏子は何時しか「眼病に霊験あらたか」で願 いが叶うと評判になりました。
現在でも、当神社では神様にお恵みを授かって載くために、眼病平癒のご祈祷を承っております。


元朝(がんちょう)奉仕行事について
田島神社では、お正月にお神酒やぜんざいのふるまい奉仕を行っています。
この行事は、昭和53年に地車青年部が歳末夜警の奉仕活動に陣中見舞いの清酒を戴き、多量だったため、元日の初参り参詣者へ提供して身も心も温まって、新年を迎えて頂いてはとの発案で始めた行事です。
最初は周知もなく人出は疎らでしたが、翌年にぜんざいを加えて子供たちや女性にも喜んで頂くようにしました。すると、紅白歌合戦が終わると同時に若い青年男女が行列をするほどの行事になりました。3年目には、なんと交通整理が必要な程の賑わいをみて、企画した皆さんが「よかったなぁ」と感無量の喜びを覚えたとのことです。この行事は、市内神社の有る中で魁(さきがけ)で、現在では多くの神社でこのような行事が行われています。


不思議の御利益「だんじりの鉦でレンズ産業の躍進」

明治37年に「だんじり」の二代目の鉦(しょう)を新調することになり、立派なものをとの意気込みで、高津の鋳物師「今村久兵衛」工房を訪れ発注しました。
今村師は、十三代続く鋳物工房で、現在の大阪城天守閣の金色に輝く「鯱」を製作された名人。今村師は発注した鉦を鋳型に流し込む際に「真っ赤な粉末」を混入したそうです。
田島の世話人がその粉末について尋ねると、「紅柄」(ベンガラ)というもので、鉦の音色がよくする秘伝だと答えたと言われています。そして、此の粉末は他に神社仏閣の建物に施す丹塗りにも使用され、金属の研磨にも最適とも答えたそうです。
これを聞いた田島の世話人は、田島のレンズも磨いてみようと考え、事情を話して粉末を分けてもらい、早速レンズを磨く際に使用しました。すると、不思議なことにレンズの玉が従来の10倍の早さで光り輝いたそうです。田島の人間はその結果に驚き、涙して喜んだといわれています。その後、田島のレンズは生産高の向上し、日本有数のレンズ産業の礎を確立したそうです。
以来、田島の町衆は、だんじりを通じて田島の神様から戴いた御恵みだとそのご神徳に終生感謝を忘れず、毎年だんじりを巡行しています。
そして、その鉦は現在も大切に保存会により保存されています。

鉦に刻印銘が刻まれ紹介します。

右側「明治三十七年九月吉祥生野村字田島若中」

左側「大阪高津住人鋳工・今村久兵衛」